SNS抜けに思うこと(主に羨ましい)

この頃SNSを抜ける、休む、やめる方が多くて、私は目にするたびに心がザワザワする。まあ、羨ましいのだと思います。かく言う私も師匠の日本ツアーの企画をスタートする前後までは、たぶん5年近く、アカウントはあるけどほぼ見ない状態でした。

Facebookのアカウントをしょっちゅう消している友人は、大学時代のFacebookが開始した当初から多かったなあ。試験勉強に集中できないとか、恋人と別れたとか、そういう理由で。その頃は日本語ユーザーはほぼいなかった。私が今Instgramをほぼプライベートで使っているのは、当時の友人がのきなみこちらに引っ越していたことを発見したからです。

なぜザワザワするのかには色々な要素があるのだと思うけど、一つには、私のセルフイメージとして、「SNSしない方がカッコイイ」というのがあるんだろうと思います。あと、一度見始めるとやっぱり中毒性があって、「投稿ついでに5分だけ見るつもりが30分」なんて本当に多いです。

一方で、今の私の活動としてはSNSが情報源そして発信源としてそれなりに必要である…という判断もしているので、やっぱり羨ましいな、という気持ちなのだと思う。実際、SNSは良い面もたくさんある事は確かなのだけど。ツイッターやFacebookで知って行ってみてすごく勉強になったイベントはたくさんあります。

しかしですね。最近それで意識的にSNSに割く時間を減らしてみて気付いたのですが、そうして何が起こるかと言えば、ネットで漫画や小説を読む時間が増えました……そう、そういえば、SNS全然見ていなかった期間はオンライン小説を読みまくっていた。ということを思い出しました。そういえば。

近頃はフィクションへの興味がずいぶん限定的になってきて、私も成長したのね…なんて思っていたのですが、リソースがSNSに流出していただけでした。

ということは、もっと私の根本的なエネルギー資源対策が必要ということね…と思わぬところから発覚し、今どうしようかしらと考えているところです。そうか、SNS辞めた人はこのエネルギー活用がうまそうに見えたから羨ましかったのか。でも実際には、うまく使っているアーティストなど忙しい人の方が上手なんですよね。あ、あと、SNS辞めたら私には情報発信源もサポートしてくれる人もいない…みたいな僻みもあるのかも。

時間や気力の使い方、ずいぶんマシになったと思っていたけど、まだまだ。修行や稽古にずいぶん力を注げるようになった…と思っていたのも、今まで外での仕事に割いていた分をこちらに注げるようになった、というだけの事でした。ということで、日々有効な手立てはないものかと色々試してみています。

ところで余談ですが、このSNSという言葉、英語だと通じません。ソーシャルメディア、と言ったら通じます。日本以外で同じ表現が流通している所、あるかな。韓国とか中国とかはそうかな。

 

「雲の使者」12号~Tomomi Paromita情報〜

不定期便「雲の使者」

Tomomi Paromitaメールマガジン12号

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白い満月が
あまりにも
離れがたくて
胸の裡に
丸写す

木々の波
山の海
花に若葉に深緑
青空に泳ぐ
白いくじら

風が
通る通る
青空から
走ってきて
通り過ぎる

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(展示・公演情報)

■ソロ公演「女神にうたう」

2019年6月14日(金)東京公演
時間 開場7:00pm 開演7:30pm
料金 2000円 (1ドリンク別)
場所 カフェ・ムリウイ(祖師ヶ谷大蔵)
〒157-0072 東京都世田谷区1 祖師谷4-1-22 3F

2019年6月30日(日)京都公演
時間 開場5:00pm 開演5:30pm
料金 2000円
場所 民族楽器コイズミ(本能寺門前)
〒604-8091 京都市中京区寺町通り姉小路上る 下本能寺前町518番地(寺町商店街内)
地下鉄東西線「市役所前駅」下車5番出口から商店街に入ってすぐ。

身体そのものを楽器として捧げるバウルのうた。
今回は女神に関するうたを中心にご紹介します。

ご予約・お問い合わせ先
tomomi.paromita@gmail.comもしくはこちらのメールフォーム

*ご予約なしでも入場いただけますが、小さな会場でそれぞれ席数に限りがありますため、予めご予約を頂いた方ご優先になります。

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ジョイグル。

4月後半にオーストラリアに行って戻って来て、はやひと月以上が経ちました。
一つの章が閉じたようなキャンベラ公演、そして新たな章が始まったようなメルボルン公演でした。

4月に引っ越してからすぐにオーストラリアに行ったのですが、5月に入ってからは、新居の整理、新たな生活を調えることに集中していました。新たな風が吹き込んだようで、心機一転とばかりに調子も良く、気がつけばインドで師匠の所にいる時とさほど大差無いような生活を送っています。つまり、朝は声の訓練とうたで始め、日暮れ時には黄昏時の祈りのうたを歌う、など。掃除も洗濯も料理も、生活をするという事が今はひたすらに楽しいです。そしてずっと歌舞に、自分の心身に取り組んでいます。

それで急に思いついて6月の公演、東京と京都、を決めたのですが、実は昨年の後半にネットストーカーというか付きまといメール騒動があって、そういう事もあったのでスッカリ、「ぜひ来て下さいね!」とアピールするような、そもそも無理してやっていたプロモーション仕事をやる気がスッカラカンに地の底に落ちてしまったんだな…と今更ながら気がつきました。

公演の企画もそうだし、フライヤーも作る気が起きなかったのですが(配ったり折り込んでいただくお願いをするのがすごく苦手で紙の無駄という気持ちも捨てきれない)、実は最近、すごく画を描いているんです。ここ数年はどこかであった「売れるといいな」という気持ちなどが今は全然無くて、この頃はただ楽しくてずっと画を描いています(インスタグラムにはだいたい画の途中経過を載せています)。それで、フライヤーは個展会場だと思おう!という思いついた謎理論でやる気が出て作ったフライヤーは中々気に入りました。

だからこれからは、ひたすらにやりたい事をやって、「私がやりたい事をやってるよ! もし興味あったら来たらいいんじゃない」ぐらいの姿勢でいこうと思って、会場には申し訳ないけれどもお客さんは一人でも来てくれたらいいや…という気持ちだったのですが、ありがたい事にポツポツと予約をいただいています。本当に一人だったらさすがにちょっと落ち込んだと思う(笑)。ありがたいです。よかったら来てね。

今は内側の静寂を聴きながらうたうことと、身体と空間の関係に特に取り組んでいます。あんまりこういうことを書きたいわけではないのだけど、結局はエゴの問題に帰結するのかなという気がしています。コダワリが溶けていくほど自由になれる。

うたえば、舞えば、必ずある一定の安心とも幸福感ともつかぬ状態にはなれる、というところには来られているように感じています。ここ2,3ヶ月で本当に変わりました。
もう何年も武装してきた甲殻をガリガリ削って落として、甲殻類でも亀でもないのに何のコスプレしてるのって、中身を思い出そうとしているような、今です。

メルボルンで友人たちが撮ってくれた音声と映像を編集してホームページに載せたのですが、やっぱりひと月も経つと「古い、」と色々ダメ出しが出てきてしまいますね。

外から見るときっと大した違いは無いのだろうけど、本人にはひと月前の記録はものすごく未熟で下手くそに見えてしまうもののようです。

手紙のつもりで書こうと思ったら、怒涛の勢いで書いてしまった! 読みにくくってごめんなさいね。

今年は8月にまたインドです。

いつもありがとうございます。

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最近は自分が覚えるためもあって割とバウルの詩の試訳をしています。誤訳もあるかもしれません、というか多分あります。ツイッターにも上げたものですが、いくつか載せます。

koi roilo shei試訳

ああ あの
美しい大工は
どこにいるのか
心のあるじよ
あの美しい大工は
どこにいるのか

木も鉄も無いのに
十四ポワ*に舟を作った *重さの単位
網目のように
空間をつらね
卵と精を合わせ
十月で舟を作ってしまった

その大工は
舟を作ったら
その中に隠れてしまった
私たちは
生まれてからというもの
死ぬまで彼を探し続ける
この舟の中にしかいない人を
誰も見つける事ができない

ゴシャイは言う
よく聴きなさい
その人を探し求めなさい
もう四時間しか無い
今度こそ
壊れた舟を修理して
この世の向こう岸に渡りたいなら

(ゴシャイ・ババのうた)
 

ghumay swopon試訳

眠りの中で
夢を見るものではない
眠りの部屋の中では
全て目に眩いばかり
最期の時が来て
今度こそ目覚めなければ
この世の対岸へ渡る事は
あまりにも難しい

まやかしを掴み
うつし世に遊ぶうち
夜がやって来て
日は沈んでいく
なぜだ 心よ
眠りのうちに彷徨うまま
誰しも誰のものではないと
しっかりと見つめなさい

このようにナーガは言う
何度も何度も呼びかける
師よ、私の船頭よ
私には舟が無い
迷いびとの導き手
御身の存在そのものに
私を引き入れて
対岸へ連れていって

(ナーガ・ババのうた)

boro asha dili re試訳

友よ
あまりにも大きな望みを
燃え上がる炎を
あなたはわたしに下さった
このよき日に

いのちの友が
いらっしゃるからと
カダンバの甘く芳しい
灯のような花で
寝床を飾り立てたのに
この願いの首飾りは
別離の炎で
すっかり乾いてしまった

友よあなたの
お顔に浮かぶ
淡い微笑みを
心に抱いて
日が沈み夜は白む
気がつけば寝床で
夢見るうちに
また夜が明ける

ボボピターは言う
ラーダー
あなたこそが
クリシュナの器
一体どれほどの愛で
この炎を下さったのか
このわたしの
瑞々しい青春に

(ボボピターのうた)

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最近読んだ本

「身体の聲:武術から知る古の記録」光岡英稔(PHP研究所)
武術の本ではあるけど、割と武術の話は少ないかもしれません。私は光岡さんがすごく好きなのですが、それは、たとえば本当に凄い方でも、どうしても観念だけで語ってしまって、そこだけちょっと薄っぺらくなってしまうという事が、人間ならば自然としてあります。と思います。だけど光岡さんの言葉は、どんな小さな言葉でも、一見荒唐無稽に聞こえるかもしれない事でも、全部物凄い検証をしてから出ています。その点で本当に虚が無い、これほど信頼できる方がどれほどいるか。もちろんその検証の証明はご本人の存在であるという前提です。そして、「感覚」という神話に非常に自覚的で、その上でその感覚が発生するその前にまで取り組んでいらっしゃること。

「インド回想記」高見麻子[田中晴子編](七月堂)
こちら[https://paromitalog.wordpress.com/2019/06/01/高見麻子さんのこと/]に書きました。

「自由に生きる」プラユキ・ナラテボー(サンガ)
タイのスカトー寺院の僧侶で日本出身。急にプラユキさんの言葉がしっくり染みるようになってお話を聴きに行きました。これほど即効的に効果が出る仏教というか、どんな宗教でも心理療法でも、あるのでしょうか、というぐらい。お話会の中で手動瞑想をやってみて、その場限りのつもりだったのだけどちょっとビックリするぐらいの発見があって続けてみています、そうすると効果があるというのがすごく分かる。集中系と気づき・洞察系の二種類の瞑想、というのは確かに読んだ事があったけれども、すごく納得したしバウルの行の色々な事へのそれこそ洞察が一気に開けました。なんて、勘違いもあるかもしれないしあまり軽々しく言えるものではないけど。開発僧の話、そして近年の役割の推移もすごく興味深く参考になるし、実はまだ読み途中なのですがものすごく勉強になる本です。

「エミシの国の女神」菊池展明(風琳堂)
そういえば半ばで止まってしまっている…でも面白い本です。瀬織津姫って??と気になって取り寄せました。

「カムイユカラを聞いてアイヌ語を学ぶ」中川裕・中本ムツ子(白水社)
「アイヌ語イラスト時点」知里高央・横山孝雄(蝸牛社)
たしか祝詞を読んでいた時だか、あと遠野物語関係の何かを読んでいたのかな、に「日本語をもっとやっぱりちゃんと知らなくてはいけないな」と発心?し、ポチっていた2冊。そこでアイヌ語に繋がった何か明確なものが当時あったのだと思われますが、少なくとも今説明はできません。笑 でも2冊とも凄く良い本で、ぱらぱらと時間を見つけて眺めつつチョットチョットで学んでいます。

「読んで見て覚える重要古文単語315」武田博幸・鞆森祥悟桐原書店)
上に続いて、ちゃんと古語が分かるようになろう…と思い気が向くとパラパラめくっています。

「宇宙からの帰還」立花隆(中公文庫)
宇宙飛行士たちのその後の取材。宇宙での体験がどう人生を変えたか。鞄に入れて電車などで読んでいるのでまだ後半に入ったあたりですが、すごく面白い、興味深い。

他にもちょこちょこあったはずですがひとまずこんなもので…。

***

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

それでは、また!

ジョイグル

201906女神にうたう_01

201906女神にうたう_02

高見麻子さんのこと

日本人としてインドの芸能をやるという事をすごく考えてなんだかモヤモヤしていた時期、その頃はまだケーララで働いていて時間があったので、空き時間には日本人でインド芸能されている方を片っ端からインターネットで調べて見つけていきました。

その時に映像を観て圧倒された、というか感銘を受けたというか、凄く希望をいただいたのが高見麻子さんです。既に鬼籍に入られていたので、生で拝見したことはありません。

たしかこの映像でした。

何が特別だったのか。とにかく理屈なしに美しいということはまずあるけれども、それよりも、「日本人がインド舞踊をがんばっている」という次元ではなく、彼女はただ彼女の舞踊を踊っている。そのように感じました。今改めて観ると、一つ一つの動きの質、先端まで、ほんの瞬間まで、神経がなみなみと通っている。控え目で美しいグングル(鈴)の音。

河野亮仙先生の記事でも訃報と共に紹介されていて、私にとっては謎めいた憧れの人となりました。
そんな麻子さんの回想録の出版のクラウドファンディングがあり、たしか最終日駆け込みで気が付いて参加したのでした。

これは生徒さんの練習用に収録した映像だそうです。歌う身体と踊る身体は一般的には違って(あくまで「一般的には」)、こんな風に自然に歌いながら踊れる人は稀です。そしてこんなに気の通った美しい声。動き。これも大好きな映像です。

麻子さんの映像を改めて観ながら思うのは、良い踊り手の条件の一つは、振り付けを振り付けと感じさせないことなのだという事。もちろん振り付けは振り付けなのだけど、それでも一瞬一瞬に生成している、前後の綿密な計画なんて感じさせない(考えさせない)舞踊である事。それはたとえば、歌を歌うように、とも言えるかもしれません。Guru Kelucharan Mohapatraの映像などを観ていると、ほとんどお喋りをしているように踊っていて、精霊の言語という感じがします。

ついに届いた本「インド回想記」は闘病中に書かれた文章などを集めて編まれたとのことで、麻子さんが人生を振り返る夢を一緒に見ているような気がして、走馬灯という言葉が浮かびます。

麻子さんが日本でオリッシイに恋に落ちて学び始められたのは私が生まれる数年前、ちょうど私が生まれた頃から師匠のクンクマ・ラールさんが帰国するのを追いかけるようにインドに通いだされたそうです。(クムクムさん、と彼女が書くそのカタカナの響きがすごくかわいい。)彼女が亡くなられた2007年頃は、私は大学生で、オーストラリアのキャンベラにいてサンスクリット語を学んでいました。インドにはまだ行ったことが無かった、私の初渡印は2008年。

こんな文章を書く人が、今もいたら、と思う。話は逸れるけれど、この感じは少し、何か秋野不矩の文章にも通じるものがあるように感じます。日本画家でインドに滞在した秋野不矩の画文集「バウルの歌」は、私がインドで就職した時に、高校の時の後輩が「古本屋で見つけた」と言ってプレゼントしてくれた本です。そのことを思い出したのは、バウルを学び始めて一年ぐらい経ってからでしたが。

画を描く人だからでしょうか。私も、画を描いて育ってきた人間だからしっくり来るという、ひょっとしたらそれだけのことかもしれないけど。麻子さんの文章からは、彼女の柔らかい感性と真摯なまなざし、そしてどれだけ熱心に勉強したか(たぶん、言葉や神話も)が伝わってきます。彼女が捧げたもの、そうして燃えているものの香が漂ってくる。大学で日本刺繍を学ばれていたということを知ってなんだかすごく納得しました。

私の師匠を見ていても思うけれど、本当に師を持つ人は、師と共に過ごした日々がひたすらに輝いていて、密度が濃くて、その後の人生はどれほど充実していたり、波乱万丈であったりしても、それまでのものとは一線を画している、エンドロールは言い過ぎかもしれないけれど、とにかく全く違うものなんだな、ということを感じます。麻子さんも、そうだったんだな。

 

なんだか全然まとまらないのですが、この本はお気に入りの詩集のように、たびたび戻って来て読み返す本になると思います。装丁、各ページのデザインも美しくて読みやすい。

出版を実現なさった田中晴子さんに、ひたすら感謝。