SNS抜けに思うこと(主に羨ましい)

この頃SNSを抜ける、休む、やめる方が多くて、私は目にするたびに心がザワザワする。まあ、羨ましいのだと思います。かく言う私も師匠の日本ツアーの企画をスタートする前後までは、たぶん5年近く、アカウントはあるけどほぼ見ない状態でした。

Facebookのアカウントをしょっちゅう消している友人は、大学時代のFacebookが開始した当初から多かったなあ。試験勉強に集中できないとか、恋人と別れたとか、そういう理由で。その頃は日本語ユーザーはほぼいなかった。私が今Instgramをほぼプライベートで使っているのは、当時の友人がのきなみこちらに引っ越していたことを発見したからです。

なぜザワザワするのかには色々な要素があるのだと思うけど、一つには、私のセルフイメージとして、「SNSしない方がカッコイイ」というのがあるんだろうと思います。あと、一度見始めるとやっぱり中毒性があって、「投稿ついでに5分だけ見るつもりが30分」なんて本当に多いです。

一方で、今の私の活動としてはSNSが情報源そして発信源としてそれなりに必要である…という判断もしているので、やっぱり羨ましいな、という気持ちなのだと思う。実際、SNSは良い面もたくさんある事は確かなのだけど。ツイッターやFacebookで知って行ってみてすごく勉強になったイベントはたくさんあります。

しかしですね。最近それで意識的にSNSに割く時間を減らしてみて気付いたのですが、そうして何が起こるかと言えば、ネットで漫画や小説を読む時間が増えました……そう、そういえば、SNS全然見ていなかった期間はオンライン小説を読みまくっていた。ということを思い出しました。そういえば。

近頃はフィクションへの興味がずいぶん限定的になってきて、私も成長したのね…なんて思っていたのですが、リソースがSNSに流出していただけでした。

ということは、もっと私の根本的なエネルギー資源対策が必要ということね…と思わぬところから発覚し、今どうしようかしらと考えているところです。そうか、SNS辞めた人はこのエネルギー活用がうまそうに見えたから羨ましかったのか。でも実際には、うまく使っているアーティストなど忙しい人の方が上手なんですよね。あ、あと、SNS辞めたら私には情報発信源もサポートしてくれる人もいない…みたいな僻みもあるのかも。

時間や気力の使い方、ずいぶんマシになったと思っていたけど、まだまだ。修行や稽古にずいぶん力を注げるようになった…と思っていたのも、今まで外での仕事に割いていた分をこちらに注げるようになった、というだけの事でした。ということで、日々有効な手立てはないものかと色々試してみています。

ところで余談ですが、このSNSという言葉、英語だと通じません。ソーシャルメディア、と言ったら通じます。日本以外で同じ表現が流通している所、あるかな。韓国とか中国とかはそうかな。

 

「雲の使者」12号~Tomomi Paromita情報〜

不定期便「雲の使者」

Tomomi Paromitaメールマガジン12号

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白い満月が
あまりにも
離れがたくて
胸の裡に
丸写す

木々の波
山の海
花に若葉に深緑
青空に泳ぐ
白いくじら

風が
通る通る
青空から
走ってきて
通り過ぎる

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(展示・公演情報)

■ソロ公演「女神にうたう」

2019年6月14日(金)東京公演
時間 開場7:00pm 開演7:30pm
料金 2000円 (1ドリンク別)
場所 カフェ・ムリウイ(祖師ヶ谷大蔵)
〒157-0072 東京都世田谷区1 祖師谷4-1-22 3F

2019年6月30日(日)京都公演
時間 開場5:00pm 開演5:30pm
料金 2000円
場所 民族楽器コイズミ(本能寺門前)
〒604-8091 京都市中京区寺町通り姉小路上る 下本能寺前町518番地(寺町商店街内)
地下鉄東西線「市役所前駅」下車5番出口から商店街に入ってすぐ。

身体そのものを楽器として捧げるバウルのうた。
今回は女神に関するうたを中心にご紹介します。

ご予約・お問い合わせ先
tomomi.paromita@gmail.comもしくはこちらのメールフォーム

*ご予約なしでも入場いただけますが、小さな会場でそれぞれ席数に限りがありますため、予めご予約を頂いた方ご優先になります。

-*-*-*-

ジョイグル。

4月後半にオーストラリアに行って戻って来て、はやひと月以上が経ちました。
一つの章が閉じたようなキャンベラ公演、そして新たな章が始まったようなメルボルン公演でした。

4月に引っ越してからすぐにオーストラリアに行ったのですが、5月に入ってからは、新居の整理、新たな生活を調えることに集中していました。新たな風が吹き込んだようで、心機一転とばかりに調子も良く、気がつけばインドで師匠の所にいる時とさほど大差無いような生活を送っています。つまり、朝は声の訓練とうたで始め、日暮れ時には黄昏時の祈りのうたを歌う、など。掃除も洗濯も料理も、生活をするという事が今はひたすらに楽しいです。そしてずっと歌舞に、自分の心身に取り組んでいます。

それで急に思いついて6月の公演、東京と京都、を決めたのですが、実は昨年の後半にネットストーカーというか付きまといメール騒動があって、そういう事もあったのでスッカリ、「ぜひ来て下さいね!」とアピールするような、そもそも無理してやっていたプロモーション仕事をやる気がスッカラカンに地の底に落ちてしまったんだな…と今更ながら気がつきました。

公演の企画もそうだし、フライヤーも作る気が起きなかったのですが(配ったり折り込んでいただくお願いをするのがすごく苦手で紙の無駄という気持ちも捨てきれない)、実は最近、すごく画を描いているんです。ここ数年はどこかであった「売れるといいな」という気持ちなどが今は全然無くて、この頃はただ楽しくてずっと画を描いています(インスタグラムにはだいたい画の途中経過を載せています)。それで、フライヤーは個展会場だと思おう!という思いついた謎理論でやる気が出て作ったフライヤーは中々気に入りました。

だからこれからは、ひたすらにやりたい事をやって、「私がやりたい事をやってるよ! もし興味あったら来たらいいんじゃない」ぐらいの姿勢でいこうと思って、会場には申し訳ないけれどもお客さんは一人でも来てくれたらいいや…という気持ちだったのですが、ありがたい事にポツポツと予約をいただいています。本当に一人だったらさすがにちょっと落ち込んだと思う(笑)。ありがたいです。よかったら来てね。

今は内側の静寂を聴きながらうたうことと、身体と空間の関係に特に取り組んでいます。あんまりこういうことを書きたいわけではないのだけど、結局はエゴの問題に帰結するのかなという気がしています。コダワリが溶けていくほど自由になれる。

うたえば、舞えば、必ずある一定の安心とも幸福感ともつかぬ状態にはなれる、というところには来られているように感じています。ここ2,3ヶ月で本当に変わりました。
もう何年も武装してきた甲殻をガリガリ削って落として、甲殻類でも亀でもないのに何のコスプレしてるのって、中身を思い出そうとしているような、今です。

メルボルンで友人たちが撮ってくれた音声と映像を編集してホームページに載せたのですが、やっぱりひと月も経つと「古い、」と色々ダメ出しが出てきてしまいますね。

外から見るときっと大した違いは無いのだろうけど、本人にはひと月前の記録はものすごく未熟で下手くそに見えてしまうもののようです。

手紙のつもりで書こうと思ったら、怒涛の勢いで書いてしまった! 読みにくくってごめんなさいね。

今年は8月にまたインドです。

いつもありがとうございます。

-*-*-*-

最近は自分が覚えるためもあって割とバウルの詩の試訳をしています。誤訳もあるかもしれません、というか多分あります。ツイッターにも上げたものですが、いくつか載せます。

koi roilo shei試訳

ああ あの
美しい大工は
どこにいるのか
心のあるじよ
あの美しい大工は
どこにいるのか

木も鉄も無いのに
十四ポワ*に舟を作った *重さの単位
網目のように
空間をつらね
卵と精を合わせ
十月で舟を作ってしまった

その大工は
舟を作ったら
その中に隠れてしまった
私たちは
生まれてからというもの
死ぬまで彼を探し続ける
この舟の中にしかいない人を
誰も見つける事ができない

ゴシャイは言う
よく聴きなさい
その人を探し求めなさい
もう四時間しか無い
今度こそ
壊れた舟を修理して
この世の向こう岸に渡りたいなら

(ゴシャイ・ババのうた)
 

ghumay swopon試訳

眠りの中で
夢を見るものではない
眠りの部屋の中では
全て目に眩いばかり
最期の時が来て
今度こそ目覚めなければ
この世の対岸へ渡る事は
あまりにも難しい

まやかしを掴み
うつし世に遊ぶうち
夜がやって来て
日は沈んでいく
なぜだ 心よ
眠りのうちに彷徨うまま
誰しも誰のものではないと
しっかりと見つめなさい

このようにナーガは言う
何度も何度も呼びかける
師よ、私の船頭よ
私には舟が無い
迷いびとの導き手
御身の存在そのものに
私を引き入れて
対岸へ連れていって

(ナーガ・ババのうた)

boro asha dili re試訳

友よ
あまりにも大きな望みを
燃え上がる炎を
あなたはわたしに下さった
このよき日に

いのちの友が
いらっしゃるからと
カダンバの甘く芳しい
灯のような花で
寝床を飾り立てたのに
この願いの首飾りは
別離の炎で
すっかり乾いてしまった

友よあなたの
お顔に浮かぶ
淡い微笑みを
心に抱いて
日が沈み夜は白む
気がつけば寝床で
夢見るうちに
また夜が明ける

ボボピターは言う
ラーダー
あなたこそが
クリシュナの器
一体どれほどの愛で
この炎を下さったのか
このわたしの
瑞々しい青春に

(ボボピターのうた)

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最近読んだ本

「身体の聲:武術から知る古の記録」光岡英稔(PHP研究所)
武術の本ではあるけど、割と武術の話は少ないかもしれません。私は光岡さんがすごく好きなのですが、それは、たとえば本当に凄い方でも、どうしても観念だけで語ってしまって、そこだけちょっと薄っぺらくなってしまうという事が、人間ならば自然としてあります。と思います。だけど光岡さんの言葉は、どんな小さな言葉でも、一見荒唐無稽に聞こえるかもしれない事でも、全部物凄い検証をしてから出ています。その点で本当に虚が無い、これほど信頼できる方がどれほどいるか。もちろんその検証の証明はご本人の存在であるという前提です。そして、「感覚」という神話に非常に自覚的で、その上でその感覚が発生するその前にまで取り組んでいらっしゃること。

「インド回想記」高見麻子[田中晴子編](七月堂)
こちら[https://paromitalog.wordpress.com/2019/06/01/高見麻子さんのこと/]に書きました。

「自由に生きる」プラユキ・ナラテボー(サンガ)
タイのスカトー寺院の僧侶で日本出身。急にプラユキさんの言葉がしっくり染みるようになってお話を聴きに行きました。これほど即効的に効果が出る仏教というか、どんな宗教でも心理療法でも、あるのでしょうか、というぐらい。お話会の中で手動瞑想をやってみて、その場限りのつもりだったのだけどちょっとビックリするぐらいの発見があって続けてみています、そうすると効果があるというのがすごく分かる。集中系と気づき・洞察系の二種類の瞑想、というのは確かに読んだ事があったけれども、すごく納得したしバウルの行の色々な事へのそれこそ洞察が一気に開けました。なんて、勘違いもあるかもしれないしあまり軽々しく言えるものではないけど。開発僧の話、そして近年の役割の推移もすごく興味深く参考になるし、実はまだ読み途中なのですがものすごく勉強になる本です。

「エミシの国の女神」菊池展明(風琳堂)
そういえば半ばで止まってしまっている…でも面白い本です。瀬織津姫って??と気になって取り寄せました。

「カムイユカラを聞いてアイヌ語を学ぶ」中川裕・中本ムツ子(白水社)
「アイヌ語イラスト時点」知里高央・横山孝雄(蝸牛社)
たしか祝詞を読んでいた時だか、あと遠野物語関係の何かを読んでいたのかな、に「日本語をもっとやっぱりちゃんと知らなくてはいけないな」と発心?し、ポチっていた2冊。そこでアイヌ語に繋がった何か明確なものが当時あったのだと思われますが、少なくとも今説明はできません。笑 でも2冊とも凄く良い本で、ぱらぱらと時間を見つけて眺めつつチョットチョットで学んでいます。

「読んで見て覚える重要古文単語315」武田博幸・鞆森祥悟桐原書店)
上に続いて、ちゃんと古語が分かるようになろう…と思い気が向くとパラパラめくっています。

「宇宙からの帰還」立花隆(中公文庫)
宇宙飛行士たちのその後の取材。宇宙での体験がどう人生を変えたか。鞄に入れて電車などで読んでいるのでまだ後半に入ったあたりですが、すごく面白い、興味深い。

他にもちょこちょこあったはずですがひとまずこんなもので…。

***

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

それでは、また!

ジョイグル

201906女神にうたう_01

201906女神にうたう_02

高見麻子さんのこと

日本人としてインドの芸能をやるという事をすごく考えてなんだかモヤモヤしていた時期、その頃はまだケーララで働いていて時間があったので、空き時間には日本人でインド芸能されている方を片っ端からインターネットで調べて見つけていきました。

その時に映像を観て圧倒された、というか感銘を受けたというか、凄く希望をいただいたのが高見麻子さんです。既に鬼籍に入られていたので、生で拝見したことはありません。

たしかこの映像でした。

何が特別だったのか。とにかく理屈なしに美しいということはまずあるけれども、それよりも、「日本人がインド舞踊をがんばっている」という次元ではなく、彼女はただ彼女の舞踊を踊っている。そのように感じました。今改めて観ると、一つ一つの動きの質、先端まで、ほんの瞬間まで、神経がなみなみと通っている。控え目で美しいグングル(鈴)の音。

河野亮仙先生の記事でも訃報と共に紹介されていて、私にとっては謎めいた憧れの人となりました。
そんな麻子さんの回想録の出版のクラウドファンディングがあり、たしか最終日駆け込みで気が付いて参加したのでした。

これは生徒さんの練習用に収録した映像だそうです。歌う身体と踊る身体は一般的には違って(あくまで「一般的には」)、こんな風に自然に歌いながら踊れる人は稀です。そしてこんなに気の通った美しい声。動き。これも大好きな映像です。

麻子さんの映像を改めて観ながら思うのは、良い踊り手の条件の一つは、振り付けを振り付けと感じさせないことなのだという事。もちろん振り付けは振り付けなのだけど、それでも一瞬一瞬に生成している、前後の綿密な計画なんて感じさせない(考えさせない)舞踊である事。それはたとえば、歌を歌うように、とも言えるかもしれません。Guru Kelucharan Mohapatraの映像などを観ていると、ほとんどお喋りをしているように踊っていて、精霊の言語という感じがします。

ついに届いた本「インド回想記」は闘病中に書かれた文章などを集めて編まれたとのことで、麻子さんが人生を振り返る夢を一緒に見ているような気がして、走馬灯という言葉が浮かびます。

麻子さんが日本でオリッシイに恋に落ちて学び始められたのは私が生まれる数年前、ちょうど私が生まれた頃から師匠のクンクマ・ラールさんが帰国するのを追いかけるようにインドに通いだされたそうです。(クムクムさん、と彼女が書くそのカタカナの響きがすごくかわいい。)彼女が亡くなられた2007年頃は、私は大学生で、オーストラリアのキャンベラにいてサンスクリット語を学んでいました。インドにはまだ行ったことが無かった、私の初渡印は2008年。

こんな文章を書く人が、今もいたら、と思う。話は逸れるけれど、この感じは少し、何か秋野不矩の文章にも通じるものがあるように感じます。日本画家でインドに滞在した秋野不矩の画文集「バウルの歌」は、私がインドで就職した時に、高校の時の後輩が「古本屋で見つけた」と言ってプレゼントしてくれた本です。そのことを思い出したのは、バウルを学び始めて一年ぐらい経ってからでしたが。

画を描く人だからでしょうか。私も、画を描いて育ってきた人間だからしっくり来るという、ひょっとしたらそれだけのことかもしれないけど。麻子さんの文章からは、彼女の柔らかい感性と真摯なまなざし、そしてどれだけ熱心に勉強したか(たぶん、言葉や神話も)が伝わってきます。彼女が捧げたもの、そうして燃えているものの香が漂ってくる。大学で日本刺繍を学ばれていたということを知ってなんだかすごく納得しました。

私の師匠を見ていても思うけれど、本当に師を持つ人は、師と共に過ごした日々がひたすらに輝いていて、密度が濃くて、その後の人生はどれほど充実していたり、波乱万丈であったりしても、それまでのものとは一線を画している、エンドロールは言い過ぎかもしれないけれど、とにかく全く違うものなんだな、ということを感じます。麻子さんも、そうだったんだな。

 

なんだか全然まとまらないのですが、この本はお気に入りの詩集のように、たびたび戻って来て読み返す本になると思います。装丁、各ページのデザインも美しくて読みやすい。

出版を実現なさった田中晴子さんに、ひたすら感謝。

 

 

東京・京都での公演のおしらせ

■ソロ公演「女神にうたう」

2019年6月14日(金)東京公演
時間 開場7:00pm 開演7:30pm
料金 2000円 (1ドリンク別)
場所 カフェ・ムリウイ(祖師ヶ谷大蔵)
〒157-0072 東京都世田谷区1 祖師谷4-1-22 3F

2019年6月30日(日)京都公演
時間 開場5:00pm 開演5:30pm
料金 2000円
場所 民族楽器コイズミ(本能寺門前)
〒604-8091 京都市中京区寺町通り姉小路上る 下本能寺前町518番地(寺町商店街内)
地下鉄東西線「市役所前駅」下車5番出口から商店街に入ってすぐ。

インド・ベンガルの吟遊詩人と呼ばれる修行者、バウルのうた。歌唱と演奏、舞踊を一人で全て同時に行います。

今回は女神に関するうたを中心にご紹介します。優しい母に、美しい娘に、そして時に恐ろしい鬼神ともなる女神に捧げ、祈るうたです。
ご予約・お問い合わせ先
tomomi.paromita@gmail.com(パロミタ友美)
もしくはメッセージその他ご連絡ください。
*ご予約なしでも入場いただけますが、小さな会場でそれぞれ席数に限りがありますため、予めご予約を頂いた方ご優先になります。

詳細やメールフォームは tomomiparomita.comにもあります。

201906女神にうたう_01

201906女神にうたう_02

フライヤーで「公演の時の私は違う課題に取り組んでいることでしょう」と書いていますが、今現在は「自分の声、内側の静寂に耳を澄ませる」ことに集注しています。

あまりにも疲れている事に慣れきっていた

 ここ数週間というもの、発見に継ぐ発見である。とあるキッカケがあって、内観と言うのか、自分というもの、感情の海の中にズブズブと、とにかく奥へと奥へと潜っていっている。

  その詳細をここで書くことはしないけど、とにかくここに来て発見したことは、私はあまりにも疲れている事に慣れすぎていた、ということ。
  それは、たとえば今、繕い物として刺し子もどきをしたりだとか、麻紐を組んだり、パッと画を描き出したり、サッと料理をしてみたり、そんな事が当たり前にできるようになって、やっと気付いたこと。
  昨年までは、このそれぞれが大仕事だった。

  今、とにかく、作りたい。物作りをしていたい。
  その欲求はずっとあったけれども、たとえば展示をするという名目を作ることで、かろうじて行動として保っていた。しかし実のところ、ギリギリの生命線を引いていたのかもしれない。
  もう何年も、こんな状態、こんなコンディションになっていなかった。
  元々、何の目的が無くても描いていたし、作っていた。そんな気力すら無くなっていたのか。

  色々な感情の仕分けをして、ようやく負担が減ったのか、私という存在の核が息を吹き返した気がしている。
  ようやく、この状態を、環境を自分に許したのだろうか。

  目が覚めるって、きっとこういう事を言う。

ターンティダートリの誘い—女性のエネルギーを祝福する表現芸術の祭典

来たる1月15日〜20日、師匠パルバティ・バウルがインド西ベンガル州のコルカタで、国際女性芸能フェスティバルを主催します。

「ターンティ・ダートリ:糸を繋ぐ女性たち」は世界中から表現芸能を追求する女性たちが集い、公演やワークショップを行い、互いにそして現地の観客・ワークショップ参加者とインスピレーションを与え合い、何よりも時と時間を共有しようというものです。「マグダレナ・プロジェクト」が母体となっています。

特に社会的に女性が抑圧されがちなインドにあってこの集いは重要な意味を持つと考えたパルバティ・バウルによって2012年ポンディシェリで始められ、2016年バンガロールに続いて今回2019年のコルカタが第3回になります。

このために国際的なクラウド・ファンディングが行われています。
12月30日が締め切りなのでギリギリのお知らせになってしまいましたが、よろしければご支援いただけますと幸いです。

パルバティ・バウルからのメッセージ:

「ターンティ・ダートリ:糸を繋ぐ女性たち」はインドで最初の国際女性芸能フェスティバルです。

歌い、踊り、夢を見て、そして女性であることの喜びを讃えることを、そして内側から湧き上がる女性のエネルギー「シャクティ」の美しさ、甘やかさに目覚めることを選び取るための機会です。

芸術や芸能に携わる女性の友人たちといる時、いつも自身の内に隠れていた新たな一面に気づきます。この体験をインドの皆さまと共有したいと、いつも思っていました。

2012年ポンディシェリー、2016年バンガロールに続いて、第3回を2019年1月にコルカタで行います。このフェスティバルでは世界中の演劇、音楽、舞踊、ビジュアルアーツ、修行の伝統などを追求する女性が集います。卓越した表現者による舞台をインドの観客が手頃な価格で体験し、またワークショップなどを通じて学び、他のアーティストと出会う機会です。

ターンティ・ダートリは非営利団体によって運営されており、運営資金を募っています。

既に40パーセント近くが集まっています(*一部、まだホームページ上に反映されていません)。ほんの少しの寄付でも本当にありがたいです。

もしも経費以上の利益が出た場合には、インドの女子教育の向上に寄付をします。

どうぞご支援ください。

よろしくお願いいたします。

https://sacsouthasia.org/donate-tantidhatri-2019/?fbclid=IwAR0cmtRVGO6_Dnuihsh3ISFrTd7FR8Ly23ULHTzGg1LE-KK5h3mHrY6BTQc

*一部の日本のマスター等のクレジットカードでは送金できない場合もある(笑…)という不具合が生じています。(American Expressは使えました)

もしこれらのカードをお持ちの方で、上記のサイトでうまくできなかったけど参加されたいという方は、以下の「バウルの響き」口座までご送金のうえ、echoesofbaul@gmail.comまでご連絡いただけますと幸いです。

ゆうちょ
店名 038 ゼロサンハチ
普通 7204023
バウルノヒビキ セイサクジッコウイインカイ

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建設中のアシュラムの写真を数枚掲載します。

2月3日~10日にはここでバウル・リトリートもありますので、ご興味の方は[http://ekatharakalari.org/retreat2019/%5Dよりお問い合わせください。こちらも年内締め切りです。

(最低限の英語もしくはベンガル語が必須となります。メール上のやりとりは基本的に英語ですが、私が担当していますので多少の日本語での対応は可能です。ただし、現地での言語サポートはいたしかねます)

最上和子さんのお稽古

少し前に原初舞踏の最上和子さんのお稽古場に参加して来まして、できればまた体験したいなと思っています。今まで個人的に感想をお送りする以外には語って来なかったのですが、一度文章にしてまとめてみようかと思いました。

なぜ語らなかったと言うと、主には、私は舞踏を全く知らないんです。最上さんと押井守監督の共著「身体のリアル」を読んでとても感銘を受けるまで、興味を持ったこともありませんでした。そんな人間が見当違いに物を語ってよいものか?(余談ですが、私は押井監督の作品を一つも観た事がありません…すみません)

インターネットで見られる動画を色々観てみましたが、大野一雄さんが燦然と凄いという事以外はやはり、よく分からなかった。なぜ白塗りなのかも気になっています。仮面のようなものかとも思いましたが、公式の説明がある訳でも無いらしい。ごく正直でありきたりの感想として、大野さんでも素顔の踊りの方が美しいと思ってしまうので…。動画で伝わらないものが大きいのだとは思いますが。

ですが知らないなりに、舞踏は何であれ哲学的・思想的な行いであるというイメージがあるとは理解していて、既にバウルの道にある私が「舞踏」の稽古を体験した、と口にするだけでも様々に勝手な意味づけや理解をされるだろうという事も容易に想像がついたので、正直扱いが難しいという事もありました。

ですが、最上さんのお稽古を体験して私が得たもの、そして今も育ち続けている体感はとても大きいのです。

バウルの歌舞で、私の舞踊を探す上で、鍵になるようなものをいただいたと思っています。

バウルの踊りは、基本になるステップなどいくつかの要素はありますが、あくまで自分で見つけていくべきものです(流派によってはステップすらありません)。私の場合はこの、日本人の身体が生きる動きを見つけなさいと言われて里神楽の舞を学び、多少なりとも動けるようにはなったのですが、自分の舞踊としていくには何か、何か足りないものがあって空を掴むような気がしていました。

私は武術のお稽古にも折にふれて参加していて(どちらかといえばそちらの方がバックグラウンドだったので…今となっては痛い事や筋力本位な動きは大嫌いなのですが)身体の自然な動き、認識についての理解を少しずつ深めてきましたが、それを舞踊に活かしきるには、今一歩何かが足りていませんでした。

パルバティ師匠の言葉に、「なぜ踊るのかを分かっていないといけない」というのがあって、この「分かる」は知識的なものではもちろん無くて、体験的、根源的な「分かる」です。分かっている人、いない人の動きは、見れば違いが分かります。でも、自分自身が分かっているかというのはもちろん、別の話です。

最上さんのお稽古は、ご自身でおっしゃるように、「踊る前の問題」「踊るための身体の問題」に取り組むものです…(具体的な言葉が違っていたらごめんなさい)中々踊るまでいかないともおっしゃっていましたが、それはもしかしたら、「踊る」という言葉の現代の定義が、あまりにも狭くあるいは広く、不十分なものであるということなのかもしれません。

再び私自身の来歴の話をしますが、私は元々、ダンスには全く興味がありませんでした。学校の創作ダンスは大の苦手でした。…興味が無かった、というのはたぶん語弊があって、自由に動くという事への欲求はありました。ただ、ダンスという形、学ばれ方、そういったものには違和感があって、それが自分がやりたい事だとは思わなかった。

ちなみに、ヨガも相当、興味が無かったんです…バウルをやっていなければ、今もヨガはやらないままだったでしょう。身体への取り組みとしては、武術が私にはしっくり来ました。高校生以来、数年間は腰痛に悩まされていた事もあり、歩き方はずっと研究していたのです。

歌をやるようになったのは、サンスクリット詩の詠唱がきっかけでした(大学の専攻がサンスクリット語だったので)。元々、詩はどこでも歌われるものでしたが、識字社会では紙の上のものになってしまった。だから歌は私にとって、言葉と身体の問題でした。

バウルは、歌い奏で、舞う事を全て同時にします…そして私は、本当に身体の自由を追求するなら、自然と舞踊にぶち当たらざるをえないことを知ります。なぜバウルなのか? 自由になりたいからです。自由になるために、敢えて道に縛られるのです。そして自由になるならば、身体が自由になるためには、舞踊が自然と浮かび上がってきます。

最上さんのお稽古は、あくまで私のつたない理解ですが、重力の存在をそのままに認識すること。感覚を密に繊細にしていくこと。そうした認識=世界とのコミュニケーションを動きに変換・反映していくこと。身体全体と神経がそのまま、ただそのものであるようになること。

それは、概念として望んでも中々触れられる領域ではありませんが、最上さんのお稽古はほとんど、ここに直に触れるためのフレームワークしか無いように感じます。フレームワークと言っても、型がある訳ではなく、うーんうまく言えないのですが。

床の感触が変わるという体感。先日は身体が薔薇になる数瞬がありました。世界の認識…体験が変わる。最上さんがよく書かれる「オジサンでも、オジサンがすごく美しくなる」というのも、観てみて初めて納得しました。

だからと言うのか、最上さんが公演に興味が無くなった、しない事にした時期があったというのは、すごく納得したのでした。稽古自体がすごく美しく神聖であるけれど、これを人に見せる形に、舞台という形にするにはたしかに、とても難しいでしょう。何代もかけて儀式の様式を成立させて、更にそれを舞台に持ってくるというプロセスを一代でやる…ようなもの、というのか。

最上さんは舞踏から出発されて、原初舞踏という名で舞踏として追究されているけれど、門外漢である私の無責任な感想としては、舞踏であれ踊りであれ、そうした分類には最上さんの取り組みは当てはまらないという気がします。新しい言葉や語彙が必要な気がする。舞台である必要も無いのかもしれないけれど、他に良い舞台(?)というのも今のところ、思いつく訳ではないのですが。私自身、バウルを日本語でやるには一から語彙を築かなければいけないと思っていますが、似たような部分があるかもしれません。

「舞踏」も「踊り」も、少なくとも現代の、一般的な使われ方からすると、最上さんの仕事をあらわすのにはあまりにも足りないように思えます。

それから…たとえばインドでは、音楽であれ舞踊であれ、そこに神なるものが宿らなければ本物ではない、というのは、いわば常識なんです。もちろん、皆がそれを判断できる、観る目があるという訳ではありませんが。西洋でも、そういった「東洋」への、オリエンタリズム混じりだとしても、一定の憧れや尊敬があります。(そういった点で、日本の社会は一周まわって物凄く遅れている、と個人的には思っています)

インドであれば、仮に一般的にはウケず、知られていなくても、ごく限られた人々には非常に尊敬されたり、より本質的な事が評価される土壌がある。(現代世界では経済的に困窮している場合もある事は一方で事実です)

けれど日本では、あまりにもそうしたことと「常識」「普通」が乖離してしまって、それらしき言葉が使われても、どうしても上滑りしたり、ただの非現実的なファンタジーや、あるいは嘲笑の対象として、でなければマーケティングや消費…になりがちです。

そんな中でも最上さんのお稽古がこのように確立されてきたという事は、私たちにとってとても幸運な事だと思います。そして同時に、この幸運がただそこで留まらずに、繋がれていくことを願います。